龍助町の「お茶の長保屋」といえば、小松の人なら知らないものがいないほど、有名なお茶屋です。
町並みに面した大きいガラス張りのショーウィンドウには、大きな茶つぼが飾られ、店先には畳敷きの「オエ」が
あり、店員が忙しく立ち働く店頭風景には、趣深いものがあります。
茶問屋「長保屋」は代々「理右衛門」を襲名して、茶葉を受けついできた家柄でした。屋号の「長保屋」の名は千年前の長保の年号から由来するものといわれています。
長保屋の遠祖は花山天皇(在位984年~986年)に仕え天皇に中国伝来のお茶を献じる役に任じられていた。
この時代が長保年間(999~1004年)なので屋号に長保屋を用いるようになりました。
加賀藩三代目利常が、寛永十六年(一六三九)五月、将軍家光の許しを得て、子の光高に加賀藩をゆずり、
小松城に隠居することになりました。利常は、小松の町の産業を盛んにすることによって、人々の活力を与えようと試み
ました。そのためいろいろな産業をおこさせたのですが、なかでも茶の生産に目をつけました。そして、山城の国
(現京都府)から茶の種を取りよせて、長谷部理右衛門に栽培させたのです。篤志家として名の高かった理右衛門
は、金平(現金平町)や瀬領(現瀬領町)で自らつくった茶を利常に差し上げました。利常はたいへん喜び、金平
で生産された茶には「こがねの薫り」、瀬領で生産された献上茶には「谷の音」という銘をつけました。
この地方に茶の生産がおこった最初だといわれています。
万治元年(一六五八)に始まった製茶業は、長谷部家を中心にこの地で盛んになりました。おもに国府村埴田
(現小松市埴田町)付近をはじめ、金平、瀬領、今江、矢崎、那谷あたりまで多くの茶畑をひらき、広く茶が栽培されるよう
になりました。